So-net無料ブログ作成
検索選択

179 : Wilhelm Richard Wagner [楽興の時]

             

Wilhelm Richard Wagner


          

 

 

 

 

 

 

ワーグナーの写真(1871年).jpg


Wilhelm Richard Wagner

     

     

    

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 発音例 、1813522 - 1883213日)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。



ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。


ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。



呼称


日本語ではワーグナー、ワグナーと書かれることが圧倒的に多いが、専門書などではドイツ語発音の[va:gnɐ]や英語発音の[vɑːgnə](英)/[vɑːgnɚ](米)に近いヴァーグナー、ヴァグナーとも表記される。


日本語ではかつて、語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音[va:gnər]をもとにしてワグネル、ヴァーグネルとも表記された。

フランス語では同言語の発音通則から外れて[vagnɛːr](ヴァグネール)と読む。














  もっと戦闘的な画面をご覧になりたい方は、以下をクリックしてください。
Youtubeのページが開きます。全画面でご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=NbNv7njA-Aw&feature=youtu.be

         

 

 

♪F.コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」で一躍有名に

ワーグナーの代表作、楽劇「ニーベルングの指環」は完成に26年の歳月を費やした全4部作からなり、上演にも4日間、総上演時間15時間を要する超大作です。

北欧の神話に題材を得たこの作品を上演するために、ワーグナーはバイロイトに祝祭劇場を建て、こけら落としの祝典は1ヶ月に渡って開かれ、多くの彼の愛好者を集めて空前の成功を収めました。

以来、1945年の一度を除いて毎年バイロイトでは、ワーグナーの作品を上演する歌劇祝典が、夏の音楽祭として開かれています。

「ワルキューレの騎行」は第2部「ワルキューレ」の第3幕で前奏曲として登場します。
「ニーベルングの指環」全体の中でも特に有名で、独立して演奏される機会も多い曲です。

最近のある調査では車のドライブ時のBGMで、事故を起こす可能性の高い曲、第1に選ばれていました。
ちなみにクラシックでは他に、ヴェルディのレクイエム「怒りの日」が第5位に入っていました。

運転で聴かれる際は充分お気をつけください(笑)

     

     

        

 

 

    

     

生涯

     

    

幼少期

    

1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・ワーグナーは警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。

     

カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナはカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。

特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であった。

     

15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。

     

183010月、ベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲しマインツのショット社に刊行依頼をするも、断られる。

1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも編曲版には不備も多く、出版には至らなかった。

当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

       

            

 

 

 

      

ライプツィヒのワーグナーの生家。.jpg
 
 ライプツィヒのワーグナーの生家。











       

       

       

     

雌伏の時代

       

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。またこのころ、聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル)であったテオドール・ヴァインリヒに作曲指導を受けていた。

翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。

      

1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。

1834年にマグデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナー(MinnaPlaner)と出会い、恋仲となる。

      

           

 

      

最初の妻であるミンナ・プラーナー。.jpg
 
 最初の妻であるミンナ・プラーナー。

     

           

 

 

     

1836年には「恋愛禁制」を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへと向かい、同地で結婚した。彼女とはのちに次第に不和となった。

1837年にはドレスデン、さらにリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。

     

1839年パリへ夜逃げ同然に移ったが相変わらず貧しかった。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになる。

      

一方で「リエンツィ」は18416月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、18424月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに「リエンツィ」の初演に立ち会うためにドレスデンへと戻った。














     

     

          

 

     

宮廷指揮者

      

ドレスデンでの18421020日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されることとなった。この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の18432月に任命された。

      

1月には『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これはリエンツィとは違ってそれほどの評判を得られなかった。

1844年にはイギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、さらに追悼演説を行って、多才を発揮した。

      

1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評であった。しかし上演され続けるうちに次第に評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていった。

     

1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。以後、『第九』は名曲としての評価を確立する。

       

1848年には『ローエングリン』を作曲したが、上演はこの時はなされなかった。













     

         

 

 

     

     

亡命時代

         

1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。

この亡命中にも数々の作品を生み出す。『ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。

もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を見ることができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという。

       

ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年のウィーンにおいてのこととなる。

この時期、彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。

たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭尽くのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。

        

しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった。

1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。

この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデ(Mathilde Wesendonck)と恋に落ち、ミンナとは別居した。

        

この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲している。

しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィア、ルツェルン、パリと転々とすることとなる。

1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されるようになった。

1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者ではなくなった。

        

そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この時の再会以後二人は会うことはなかった。

またこの頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。














      

       

      

      

ルートヴィヒ2世の招き

           

追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。

しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。

        

コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。

ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。

        

ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。

       

        

      

       

バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像.jpg
 
 バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像

          

     


そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わる。

        

1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868621日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。

       

『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものであるが、現在でも歌劇以外の作品として特に有名である。












        

         

              

 

 

        

バイロイト祝祭劇場の建設

          

1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。

       

             

 

 

       

バイロイト祝祭劇場。.jpg
 
 バイロイト祝祭劇場。

      

        

        

       

1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。

        

1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている(詳しくは『パルジファル』)。

         

このころには祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的となる。彼の言行はいろいろな形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となったが、その一方でユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィ(Hermann Levi)に『パルジファル』の指揮を任せたりしている。













      

            

 

 

 

      

死去

      

1883213日、ヴェネツィアにて旅行中、客死。


遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。

作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。












     

            

 

 

 

      

後継者たち

      

ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマが運営し、1907年からコジマは引退して息子のジークフリート(Siegfried, 1869 - 1930年)が中心となって運営した。

         

ジークフリートは作曲家としても活動している。ワーグナーを好んだヒトラーは晩年のコジマに面会している。

        

            

 

 

       

     

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓。.jpg
 
 バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓。

       

             

 

 

 

      

      

1930年にコジマとジークフリートが相次いで死去すると、ジークフリート夫人のヴィニフレート(イギリス出身、1897 - 1980年)があとを継いだが、彼女はヒトラーと個人的にも親しくし(一時は結婚の噂もあったほどである)、ついに祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになった。

       

なお長女フリーデリント(Friedelind, 1918 - 1991年)は母のナチスへの協力を嫌って出奔し、アメリカへ亡命した。

        

第二次世界大戦の敗戦後、ヴィニフレートはナチスとの協力の責任を問われて祝祭劇場への関与を禁止された。

劇場は一時アメリカ軍に接収されたが、長男ヴィーラント(1917 - 1966年)に返還。

       

1951年、フルトヴェングラー指揮の第九でバイロイト音楽祭も再開された。ヴィーラントは戦後のバイロイトでの上演の多くを演出し、舞台装置を極端に簡略化し、照明の活用と、わずかな動きに密度の濃い意味を持たせるその演出技法は、巨匠カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに「新バイロイト様式」として高い評価を受けるとともに、ナチス時代との訣別を明確にした。

       

なお、彼の演出にはテオドール・アドルノ、エルンスト・ブロッホらナチスとは対極的な多くの知識人の支持・支援があった。

ヴィーラントの死後は弟のヴォルフガング(Wolfgang, 1919 - 2010年)が兄の子息たちを完全にバイロイトから追い払い、自分の子孫たちとだけ運営を引き継いだ。

           

彼はヴィーラント時代から演出にも携わっており、兄の死後も少なからぬ作品の演出も行ってはいるが、ゲッツ・フリードリヒ、パトリス・シェロー、ハリー・クプファー等を筆頭に、外部の演出家による上演に比重が移って今日に至っている。

        

ヴォルフガングはむしろ音楽祭の運営面での実績が顕著であるが、一方でバイロイトの兄方の子孫を無視したり、公的補助をほんの少ししか受け取らないでパトロンの金で多くを運営して人事を決める「私物化」と「商業主義化」への批判があり、優れたワーグナー指揮者・歌手・演出家が彼と対立して、音楽祭から身を引く例が少なくない。

         

現在は、娘のエファとカタリーナが共同でヴォルフガングの跡を継いでいる。













     

     

      

      

人物

 

 

・ベートーヴェンとほぼ同じく後期の楽劇の巨大さからは想像できない身長167cmぐらいの中肉男であった。逆に後妻のコジマは父親似の長身であったため、夫妻での写真撮影では身長差が目立たないように工夫をこらしている。

           

・亡命中、自分を保護してくれたリストを音楽的にも深く尊敬しており、唯我独尊とされる彼が唯一無条件で従う人物とされる。当時、ブラームス派とワーグナー派と二派に別れた際、リストが自分についてきてくれたことに感激し、自信を更に深めた。

          

・若いときは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ったりし、パーティーで出会った貴族や起業家に「貴方に私の楽劇に出資する名誉を与えよう」と手紙を送ったりした(融資ではなく出資である)。これに対し拒否する旨の返事が届くと「信じられない。作曲家に出資する以上のお金の使い方など何があるというのか」と攻撃的な返事を出したという。

          

・夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかったという。

           

・常軌を逸する浪費癖の持ち主で、若い頃から贅沢をしながら支援者から多額の借金をしながら踏み倒したり、自らの専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。リガからパリへの移住も、借金を踏み倒し夜逃げ同然の逃亡であった。

            

・過剰なほどの自信家で、自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ、と公言して憚らなかった(現実にはリストやウェーバーなど彼が敬意を払っていた作曲家は少なくなかったようだが)。このような態度は多くの信奉者を出すと同時に敵や反対者も出す結果となっている。

          

・ドイツ音楽雑誌の新音楽時報に匿名で『音楽におけるユダヤ性』と題した反ユダヤ主義の論文を発表。音楽に対するユダヤ人とユダヤ文化の影響力を激しく弾劾した。後にこれはナチスに利用されることともなった。現在でもイスラエルではワーグナーの作品を演奏することはタブーに近い。欧米でもワーグナーの「音楽」を賞賛することは許され(第二次大戦中でもアメリカなどで普通に演奏されていた)てもワーグナーの「人物」を賞賛することはユダヤ人差別として非難の対象となる。

          

・哲学者フリードリヒ・ニーチェとの親交があり、ニーチェによるワーグナー評論は何篇かあるが、中でも第1作『悲劇の誕生』はワーグナーが重要なテーマ課題となっていたことで有名である。しかし後に両者は決裂する。

            

・ブラームスとそりが合わず、犬猿の仲であった。1870年にウィーンで催されたベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したが、土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否した。

           

・上記のように反ユダヤ主義、反ブラームスのイメージがある一方、ユダヤ系の先祖を持ちブラームスと交友関係を持っていたヨハン・シュトラウス2世とは一定の交流関係を築いていた。また、ブラームスについても音楽的な才能についてはある程度評価しており、ブラームス自身が演奏した『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』を聴いて、「古い様式でも、本当に出来る人にかかると、いろいろなことが出来るものだ」と評価している。(三宅幸夫『ブラームス』新潮文庫、1986年、92頁。)

          

・動物好きで犬とオウムを飼っており、動物実験に反対する投書を寄稿したこともある。














      

        

        

      

作品

      

・オペラ

・楽劇作品
・交響曲
・管弦楽曲
・室内楽曲
・ピアノ曲
・声楽曲
・合唱曲
・歌曲
・編曲


文筆活動

     

      

ワグナーの楽曲一覧については下記を参照されたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7 


















13094202_495854540614033_117189118760786684_na.jpg





 


Ladies and gentlemen Many thanks for your visit !



20080414a.jpg
 
 
  

このブログは美しい曲・美しい絵画・美しい詩 等をインターネットの宝の山から見つけ出し、

ご紹介する事を基本としているブログです。

またここで使っている音楽・動画は、ご紹介している作曲家・アーティストの作品や解説への引用です。

 


nice!(59)  コメント(14) 
共通テーマ:音楽

nice! 59

コメント 14

夏炉冬扇

元気をもらって畑です。
by 夏炉冬扇 (2016-09-24 08:16) 

beny

般若坊様、おはようございます。ワルキューレは、地獄の黙示録で知りました。ローバートデュバルの酷薄な演技が印象に残っています。曲を聴くと意気高揚しますね。車の中で自分に喝を入れたいときCDをよくかけていました。
by beny (2016-09-24 08:17) 

般若坊

夏炉冬扇さん おはようございます。
この9月は雨ばかりで、極端に日照が不足しています。
畑の野菜たちは元気でしょうか・・・どうか虫や疫病に負けないよう、手入れしてあげてください。
我が家のバルコニーのバラも次々と咲いていますが、雨ばかりなのでせっかくの蕾が咲きかけては、茶色に変色していく状況です。
早くカラッと晴れてくれないかな~ ^^;
by 般若坊 (2016-09-24 08:30) 

般若坊

benyさん おはようございます。
ワルキューレ 格好いいですね!精神的に高揚する曲ですね。 ”行け!行け!” の心理状態にさせるのでしょうか・・・
車で活を入れられる時にお使いのようですが、安全運転でお願いします。
何しろ事故率一番のBGMだそうですから・・・ ^^
by 般若坊 (2016-09-24 08:37) 

YUTAじい

おはようございます。
定番・・・偉大ですね古さ違和感感じさせないセンス光ってます。
何時もありがとうございます。
by YUTAじい (2016-09-24 08:56) 

般若坊

YUTAじいさん おはようございます。
付録につけた真珠湾攻撃のビデオ・・・ご覧になりましたでしょうか?
この映像の中に、真実ではないものが描かれているような気がします。
それは、道で逃げ惑う人々、沈没する巨艦から逃れようと必死に泳ぐ兵士に対して、戦闘機が機銃掃射を行う場面です。
日本海軍は真珠湾で、戦艦・航空母艦・飛行機を目標とした、愚直なまでの特化攻撃をした・・・と伝えられています。
ロジステック、すなわち ”燃料タンク群・港湾設備・輸送船等に対する攻撃を行わなかったことが、米太平洋艦隊の再建を容易にした” との後世批判を浴びるぐらい、攻撃対象を限定していたわけです。
そこに攻撃隊直援の戦闘機が、無辜の人々に機銃掃射を浴びせるような攻撃は、任務としても武士道的にもあり得ないと思うのです。
これは有り余る武器を有する国が終戦間際に採った戦術で、アメリカの作者が後世になって ”こうだったろう・・・” との想像で作成したグラフィックで、真実を表現していないと思うのです。・・・
by 般若坊 (2016-09-24 09:25) 

般若坊

ワルキューレとは・・・

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)は、北欧神話に登場する複数の半神。
戦場において死を定め、勝敗を決する女性的存在である。
彼女たちは王侯や勇士を選り分け、ヴァルハラへ迎え入れて彼らをもてなす役割を担ったが、これは尚武を旨とするヴァイキングの思想を反映したものと考えられる。

ワルキューレはおそらく人間の魂が動物の姿をして現れる霊的な存在フィルギャから派生したものと考えられ、主神オーディンの命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選びとってを天上の宮殿ヴァルハラへと迎え入れる役割を持っていた。
この勇士達は、ラグナロクでの戦いに備えて、世の終わりまで武事に励むという。
ヴァルハラにおいて、彼らをもてなすのもワルキューレの務めの一つである。

ワルキューレは天女のように白鳥の羽衣を持ち、男にこれを奪われるエピソードや、これを身にまとうことで白鳥に変身する描写も登場する。

本来、ワルキューレは9人いるといわれているが、伝承によって12人、8人と、人数に違いが見られる。
また、サガの中に王の娘がワルキューレであると紹介される下りが見られる。

ルーン文字で書かれたレォーク石碑などによると、「ワルキューレの馬」という言葉は一般的なイメージとは違い、狼のケニングとして使われている。
戦死者たちの死骸に集まる狼の群れをモチーフにしたものと考えられている。

オーロラは、オーディンの使者として夜空を駆けるワルキューレの鎧が煌いたものだと考えられていた。

by 般若坊 (2016-09-24 10:37) 

般若坊

やりました 豪栄道! 初優勝です! おめでとう!
大関・豪栄道が初優勝…大阪出身力士86年ぶり
あとは 全勝優勝だね!
by 般若坊 (2016-09-24 18:01) 

bpd1teikichi_satoh

般若坊さまR.ワーグナーを記事にして下さいましたね!有難うございます!

爺の様なワグネリアン(然し、ドイツに旅行した事は有りますが、
聖地バイロイトには行っていないので、真のワグネリアンとは認め
られないかも知れませんが?)R.ワーグナーのオペラは常時CD,DVD,ブルーレイディスク等で観劇しております。

R.ワーグナーの様な超スケールが大きい偉大な総合舞台芸術家はもう生まれないのかも知れません。

ナチスドイツがその音楽と思想を利用した面が有りますが、あらゆる点でドイツロマン派クラシック音楽の頂点に君臨する作曲家だと想います。
by bpd1teikichi_satoh (2016-09-25 04:37) 

bpd1teikichi_satoh

申し訳ありません追記します!爺達夫婦は2002に来日した
DEUTSCHE STAATSOPER BERLIN(ベルリン国立歌劇場日本公演)Der Ring des Nibelungen「ニーベルングの指輪」全曲を観劇しました。1.序夜「ラインの黄金」2.第1夜「ワルキューレ」
3.第2夜「ジークフリート」4.第3夜「神々の黄昏」
ダニエル・バレンボイム指揮、ハリー・kプファー演出、ベルリン・シュターツカペレ演奏、ベルリン国立歌劇場合唱団で素晴らしかったですが、演奏時間が全て約15時間でへとへとに疲れました!
by bpd1teikichi_satoh (2016-09-25 05:01) 

旅爺さん

おはよう御座います。
今朝は物凄い霧で少し先しか見えません。
でも朝霧は晴れると言いますから晴れて暑くなるんでしょうね。
ワーグナーの名は知ってるし聴いた曲もありますが分からないです。
ノイシュバンシュタイン城には行ってきました。
by 旅爺さん (2016-09-25 08:43) 

般若坊

bpd1teikichi_satohさん おはようございます。
台風、秋雨前線の停滞と9月中のほぼ連日の降雨も、今朝はやっと上がり本当に久しぶりの陽光を、拝むことができました。

さてワグネリアンである bpd1teikichi_satohさん のコメントをお待ちしていましたよ。
楽劇 ”ニーベルングの指輪” を、日本公演で全幕ご覧になったとの事・・・すごいですね。
ワグナーの作品を聴くには、それが好きであるばかりでなく、体力も必要ということですね。
ワグナーの作品は、どれも長時間であるので忙しい我々としては、それそれ部分的に聴くのが精いっぱいです。
毎日が日曜日の私も、娘婿から ”さまよえるオランダ人” のDVDを借りて、全曲を3日ほどかけて視聴した経験があります。
ワグナーの楽劇はいずれも大作ですが、演奏時間を調べてみましたので載せておきますね!

・ローエングリン: 演奏時間  最終決定稿で約3時間30分(各幕60分、80分、70分)。
・神々の黄昏 (楽劇): 上演時間は約4時間20分(序幕および第1幕110分、第2 幕70分、第3幕80分)。
・トリスタンとイゾルデ (楽劇): 演奏 時間は約3時間55分(第1幕80分、第2幕80分、第3幕75分)。
・ジークフリート (楽劇): 全3幕からなり、上演時間は約3時間50分(第1幕80分、第2幕70分、第3幕80分。
・リエンツィ: 3時間40分(各幕…第1幕:35分、第2幕:55分、第3幕:40分、第4幕:20分、第5幕:25分)。
・さまよえるオランダ人: 1幕形式の場合で約2時間10分。  3幕版は今日では実際の上演が珍しいが各幕50分、50分、30分の割合。
・ニーベルングの指環: 序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold):2時間40分  第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre):3時間50分  第2日 『ジークフリート』(Siegfried):4時間  第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung):4時間30分

by 般若坊 (2016-09-25 09:31) 

般若坊

旅爺さん おはようございます。
やっと晴れましたね!日照不足で変な着色気味の柿も、太陽の光を十分に浴びて、鮮やかな色に戻ってほしいですね!
by 般若坊 (2016-09-25 09:36) 

般若坊

豪栄道! 全勝優勝 おめでとう! いい相撲でした。 ^^
by 般若坊 (2016-09-25 17:23) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。